アメリカの夜
阿部和重、2001
「近代文学演習」という授業で
考察・発表する作品です。
作品特有のうざったいはれぼったい長ったらしいまわりくどーい表現に、生まれて初めて本を破り捨てたいと感じました。
最初は。
でも、読み進めてくうちにだんだん愛着がわいてきてしまった。
●「私」語り手がある哀しい男「唯生」の物語を語り進めていく、という内容。
映画学校を卒業し、同じ芸術を志す人たちとアルバイトをしている唯生。
秋分の日が誕生日である彼は、自分を特別な存在である、特別な存在にならなければいけない、と考え、さまざまな本の主人公らを模倣し始める。
途中で読者に種明かし…
ここまで「私」が語ってきた「唯生」という人物は、実は「私」自身のことであった!
>「私」は自信をモデルにして物語の主人公を形成してみようという魂胆から、中山唯生という男をねつ造した。
>唯生という人物など私は知らない。
自身の頭の中に「唯生」という別人格を置き、「私」は物語の続きを語り始める。
唯生は「特別な存在」になるためには「気違い」にならなければならないという短絡的発想から、
「ドン・キホーテ」におけるアロンソ・キハーノ=ドン・キホーテのように自分とは別人格が必要であると考える。彼が得た別人格、すなわちもう一人の自分…それは「私」であった。
「唯生」は「私」のことを、名前の頭文字をとって「エス」と呼ぶ。
特別な存在、を意識する唯生。
鏡を見るように模倣を繰り返し、
だんだんと狂気に包まれていく…
そんな「唯生」を自分自身だとにんしきするためには「私」にも狂喜がもとめられる。
模倣の模倣。
二重の幻影。
私=唯生=エス?
私≠唯生≠エス?
私≧唯生≧エス?
さまざまな構図が交錯する中、
唯生は「特別な存在」になり得るのか?
そしてエピローグ
この物語は「唯生の物語」なのか「私の物語」なのか?
たんなる「私」の空想にすぎないのか、実際に「私」が「唯生」という名のもとに肉体的に行動しているのか?すべては幻影だったのか…?
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
主人公はいったいだれなのか
誰の物語なのか
何が幻影で何が虚構で何が現実で…?
考えれば考えるほど。
とりあえず物語の登場人物も阿部さんもこの作品の読者も研究者たちも…
頭がおかしいとしか考えられません

そんなあたしも♪
は!そういうことか!ってひらめいて、キーボードを打って、読み返してみるともうわからない。
読めば読むほど新発見があって、何が事実なのか、なにが正しいのか何にもわかんない。
あー
鬱です↓
まるで論文を読んでいるかのような。
ただの文庫本に見せかけてなんだこいつ。
それでも理解し始めてます。
わかると面白い。
つながる瞬間が楽しい。
そんな自分がまた怖い。笑
どうなるか分んないけど、無事にレジュメが完成することを祈ります。
寝れなそうです。笑
教材論の発表と、中国古典文学演習の発表は無事終了。
ゼミの発表は7月に延期。
今回の発表さえ終われば一気に楽です

そしたらあたしにも春とか夏とか来ればいいと思う。ほんとに。^^
もー最近あたしの周りは幸せな人多すぎだよ!
あやみおめでとうこのやろう!
手紙とどいたかな?★
とにかくひたすらにがんばりま!
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