そのひとがうたうとき
[あい]
谷川俊太郎
あい
口で言うのはかんたんだ
愛
文字で書くのもむずかしくない
あい
気持ちはだれでも知っている
愛
悲しいくらい好きになること
あい
いつでもそばにいたいこと
愛
いつまでも生きていてほしいと
願うこと
あい
それは愛ということばじゃない
愛
それは気持ちだけでもない
あい
はるかな過去を忘れないこと
愛
見えない未来を信じること
あい
くりかえしくりかえし
考えること
愛
いのちをかけて生きること
[そのひとがうたうとき]
そのひとがうたうとき
そのこえはとおくからくる
うずくまるひとりの
としよりのおもいでから
くちはてたたくさんの
たいこのこだまから
あらそいあうこころと
こころのすきまから
そのこえはくる
そのこえは
もっととおくからくる
おおむかしのうみの
うねりのふかみから
ふりつもるあしたの
ゆきのしずけさから
そのひとがうたうとき
わすれられたいのりのおもい
つぶやきから
そのこえはくる
そののどは
かれることのないふかいいど
そのうでは
みえないつみびとをだきとめる
そのあしは
むちのようにだいちをうつ
そのめは
ひかりのはやさをとらえ
そのみみは
まだうまれないあかんぼうの
かすかなあしおとへと
すまされる
そのひとがうたうとき
よるのなかのみしらぬこどもの
ひとつぶのなみだは
わたしのなみだ
どんなことばも
もどかしいところに
ひとつの
たしかなこたえがきこえる
だが
うたはまた
あたらしいなぞのはじまり
くにぐにのさかいをこえ
さばくをこえ
かたくななこころ
うごかないからだをこえ
そのこえはとおくまでとどく
みらいへとさかのぼり
そのこえはとどく
もっともふしあわせなひとのもとまで
そのひとがうたうとき
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